公演情報:2026年1月30日・31日 Cabinet of Curiosities 2026〈New Music Theater〉
リードを咥えたクラリネット奏者が、豆腐売りのラッパを思わせる音を繰り返すところから《子供部屋のトポロジー》は始まった。まだ上演されたばかりの渡辺裕紀子のオペラ《柔らかい月》が残した静寂を味わう間もなく、筆者を含む聴衆たちは、ホールからの退場を促され、ホワイエに無造作に置かれた丸椅子ないし座布団に腰掛ける。筆者が座ったのは、クラリネット奏者・照沼夢輝のすぐ右後ろの椅子であった。クラリネット譜の書き込みが見えるほどの臨場感がある居場所であったが、一方でたとえばギター奏者の藤元高輝の姿は全く見えない。反対に、ギターは見えてもクラリネットは見えなかった観客もいたはずだ。ホワイエには、ビニール袋やビニール紐、養生テープからなる蜘蛛の巣を思わせるオブジェがいくつか配置されている。その中には映像が投射される大きいオブジェがあり、スクリーンとして機能している。とはいえ、オブジェには凹凸があるため映像は歪んでいる。奏者とオブジェ、そして聴き手が無造作に混ざり合う空間で、今作は上演された。
リードの音と入れ替わるように、奏者たちが声を発しながら演奏をはじめる。その音は、調和しているというよりも、ただ偶発的に重なり合っているような印象を与える。ときおり、警告めいた硬く破裂するような音が聴こえるが、その方向に目と耳を向けてみても、何か音楽的あるいは演劇的な要素が後に続くわけではない。「正しい聴き方」などはないようだ。この混沌とした空間に身を委ねていると、オブジェと同様の素材からなる白いコスチュームを着た小阪亜矢子がゆっくりと現れる。彼女の歌は、声楽的に響くものの、音楽であるというよりも何かのメッセージのような響きを胚胎している。だが、その歌詞は極度に解体されており聞き取れない。彼女が語るものは、ただの響きとして空気の中に沈澱していく。
「ねこは一回も泣きませんでした」——しかし突然、小阪がこの明快な言葉を喋る。「歌う」でも「語る」でも「囁く」でもなく、「喋る」としか形容しようがない剥き出しのトーンで、同じフレーズをもう一度繰り返すと、会場が暗転し、彼女はおもむろに腕を伸ばして小さな灯りを掲げる。それ以前にも音は常に鳴っていたのだから、「沈黙を破った」という表現は正しくないだろうが、しかし、意味を欠く響きで充満した空間に、唐突に意味ある言葉が投げ込まれたことによって、何か沈黙めいたものが破られたことは確かだった。これを皮切りに、各楽器がタラタラタラタラ……と五度音程からなるシグナルを鳴らしはじめ、どこからか「あめあめあめあめ……」と囁きが聞こえてくる。音が無関係に並立していた先程までとは異なり、類似した音型からなる音と声に会場が満たされる。凍てついた空間から、音楽と言葉がささやかな温もりをもって絡み合う空間へ。こうして次第に「意味」が輪郭を帯びてくる。
男性奏者たちが「あめあめあめあめ」「ざんざんざかざか」「ふるふるふるふる」と息を合わせて力強く声を発すると、なぜか幼少期に見た映画『千と千尋の神隠し』に登場する「頭」(三体一組で動く、あの緑色の髭面の怪物)の声を連想した。ひょっとすると《子供部屋のトポロジー》というタイトルに引きずられて、ノスタルジックな幻想を見させられたのかもしれないと、自らの打算的な読みを反省したが、それだけに尽きるものではなかった。「言葉」を単なる「音」としてしか認識できかった幼児期の世界から、成長を経て意味の世界に飛び込んだ頃の、今となってはいくら脳を捻っても思い出せないようなあの感覚が、作品の力に導かれるように、まだその感覚を思い起こすことができた幼少期に観た映画のイメージと連動して現れたのだと今では納得している。単なるノスタルジーではなく、幼い頃の感覚がよぎったのだと。「しろうま……ぼくのしろうま!しなないでおくれ!」という叫びが、短く鋭い音を連ねる高音とドローンのように唸るコントラバスを伴う次の展開に至る頃には、声と音が共に怒りのニュアンスを含むことを、「怒り」という感情が新しく芽生えた頃のような曖昧さであったが、しかし確かに理解できた。「あら、傘をさしたんですか、雨が降っているのに」「さよなら、もう会わないよ」「お日さんお日さん、どうぞわたしをあなたのところへ連れてってください」「狐が人を騙すなんて、嘘かしら」——これら全ての言葉が、もはや明らかな意味と感情をまとっている。
冒頭の世界でも、音や言葉が常に鳴り続けているが、意味が結晶化することはなかった。いわば意識生成の前段階のような状態だ。しかし、そこから徐々に音楽的・言語的な連関が認識されるようになり、ついに私たちが日々体験しているような有意味な世界が開かれる。このような過程を描き出したのが《子供部屋のトポロジー》であった。ただし、この意識生成のプロセスは、必ずしも厳格な構成を通して押し付けがましく体験させられるのではないというところに、本作の魅力がある。たとえば上演中に小阪がコスチュームを脱ぎ、少年風の簡単な装いに着替える場面や、洗濯物をビニール紐に掛けるような動きをする場面があったが、それが行われる場所もまた無造作で、陣取る場所によってはそれを見ることすらできない観客もいただろう。ここで私たちが体験するものは、「座席の選択」というささやかだが重大な偶然性に委ねられている。一度の観劇では全てを理解することができない茫洋とした世界の中で、意識生成という私たちの根源に関わる、そして普通に暮らしているかぎり再体験することができないものが提示された。それは、音だけによって、あるいはテキストや舞台装置だけによってではなく、飽和した情報の中で巧妙に配置された緩やかな結びつきによって提示され、聴き手たちを一つの方向へと導く。通常の音楽作品ではできない、「ミュージック・シアター」だからこそ可能な表現だった。
作品の終盤では、これまでにないほど明らかに象徴的な場面が現れる。小阪が風船をパンッと割り、その中から花びらのようなものが散り、ヴィオラの迫田圭が彼女にしわくちゃになった楽譜のようなものを手渡す。楽譜は意味の媒体装置だ。「何かが起きる」という期待が高まる。だが、その楽譜を見て歌う彼女から発せられるのは、冒頭の世界で歌われていたような、極度に解体された音素と旋律だった。ここに至るまで積み上げられてきた有意味の世界への安易な着陸を拒むような展開であった。しかし、すぐさま彼女は「昼はカンカン日の光。夜はツンツン月明かり」と宮沢賢治『雪渡り』の一節を五音音階で歌う。拍子抜けするほど単純な、子どもたちが無邪気に口ずさむようなメロディによって、意味の拒絶という予感すらも裏切られる。無意味の世界から有意味の世界への移行といった一義的な「コンセプト」を認めないと宣言するかのように、掴みかけたものをさりげなく霧散させる。そして、あっけなく舞台は明転する。再び照明のもとに晒されたオブジェは、その主がすでに広い世界に旅立った後の子供部屋に残されたゴミの山とも宝の山ともつかぬ何かに見えた。
2026年1月末に青山にあるゲーテ・インスティトゥートを訪れた筆者は、作品が始まるのかさえわからないまま、豆腐屋のラッパに誘われ、まだ世の中に溢れる「音」の意味がわからなかった頃のような不安を体験した。そして、徐々に光が差し込むように、意味の世界が開ける。言葉によって分節化することはできないが、誰しもが体験したことのある究極的に私的な思い出だ。しかし最後には、暴力的なまでにありふれた旋律によって、再び公の世界——喧騒の青山、人々が集う演奏会、子供部屋の主が今立っている現実——に引き戻された。